Christmas Pizzicato : 12/25
サンタクロースの彼が帰って一晩。ほぼ眠れなかった。
二日彼に貸したベッドに潜ったものの、眠気がくることはなく天井や壁、室内を眺めて、彼と過ごした三日間を思い出していたらいつの間にか朝を迎えていた。空が明るみだしたのをカーテン越しに感じて、ああ、一睡も出来なかった、とぼんやりと頭の片隅で思った。
完全に部屋が明るくなっても起き上がる気がせず、手を天井に向けて伸ばしてもそれになにも意味はない。しかし、ふと左手の指に負った怪我を思い出した。
注意力散漫な状態で野菜を切っていたら自分の指に怪我をしたんだった。あの時の彼は慌てて、でも呆れて笑って治療してくれた。二日経った今は、そこにはかさぶたが出来て痛みもない。彼がちゃんと消毒をしてくれたから治りも早い筈だ。
僕の以前の食生活、怪我に呆れて、面倒くさそうに、でもなんだかんだ言いながらも僕と様々な話をしたり、料理を作ってくれたりした彼との生活は高校生になってから一番楽しかったと言っても過言はない。色味のない変わらない毎日が急に鮮やかな色彩をおびて、世界が変わったように思えるほど。それほどこの三日間は僕に大きな変化を落としていった。
唐突に彼がいなくなったその世界はいまだ色を持っているが、空虚だ。胸にぽっかり穴が空いてしまっている。
その空虚感は僕が見つけた『あれ』が彼のものだと気付いた時から少しずつ広がっていた。
早く渡そうと思いながらも渡せなかったのは、正体不明の胸の痛みに怯えて、空虚感が広がるのを咄嗟に止めたかったからだと今なら解る。しかし、その咄嗟の行動が更に空虚感を拡大させ、胸の痛みから逃れることを赦さなかったんだと、彼がいなくなってから気付いた。
嘘さえ吐かず早く渡していたら、胸の痛みに怯えることはなかっただろう。もしかしたら、ぽっかり空いた穴もここまで広がらずに済んだかもしれない。それでも、僕は彼と一時でも長くいたいが為に『あれ』を隠していたという事実がある。
彼が来て数日、本当に楽しかった。料理を作ってくれて、おはよう、おやすみと挨拶が出来て、一人でいるとできないことばかりが彼がいることで成せる。おはよう、おやすみは誰かと電話でも交わせるが、「ただいま」なんてこの部屋に引っ越してきてから一度も言ったことがない。それが心地よいと僕は感じていた。
また脳裏に彼と過ごした時間が蘇って、彼の名前を無意識に呟いていた。会った日に電話越しに聞いたキョンというあだ名ではなく、彼の本名。どことなく高貴で壮大なイメージを思わせる名前を。彼らしい名前だと思った。
駄目だ、また心が空っぽになってきてしまった。
彼の名前を呟けば空いた部分を埋められるかと思ったがそれは一瞬のことで、満たされたものは泡となって消えていく。その泡を求めるが如く勢いをつけて起き上がっても、寝不足の頭が痛むだけだ。シーツの波に沈みそうになる身体を叱責して、そこから離れた。このベッドにいたら更に彼を思い出してしまう。
カーテンを開けて雲一つない空から降り注ぐ光を身体に受けながら壁掛け時計を見ると、もう昼間際だった。なにか食べないと。
のろのろとキッチンに行き冷蔵庫を見ると、野菜があった。彼と買いに行った野菜だ。僕の苦手なニンジン、ピーマン、タマネギがある。他にはキャベツとネギ。これらを使うしかない。ごはんは昨日多めに炊いて冷凍したものを解凍しよう。それは彼が昨夜ここを出て行く前に便利だからとラップに丁寧にくるんでくれたものだった。
彼よりも時間をかけながら出来上がったのは、なんの変哲もない野菜炒め。
「いただきます」
彼がいないというのに言ってどうする。自嘲に近い笑いがこぼれそうになりながら、自分で作った野菜炒めを口にした。
「……やはりあなたが作る料理の方が美味しいです」
彼の料理は自分で作るのとは決定的になにかが違う。味付けか、炒める時間か。味付けは彼が三日前に作ってくれた野菜炒めを元にしたし、野菜は程よい色になるまで炒めた。そのおかげかタマネギに苦みはなく甘かった。しかし、味付けを同じにしたつもりだったのにニンジンとピーマンの苦みは残った。あの苦みのなかったニンジンとピーマンはなんだったのだろうか。
彼の料理は魔法みたいだと思う。ニンジンやピーマンが入っている料理を食べると必ず舌がその苦みを感じ、それ以上食べなくなるのが以前の僕だった。しかし、彼の料理は違った。少しばかり炒める時間を長くし、味付けを工夫しただけであの苦みをあまり感じなかった。多少のあの苦みは舌を刺激したが不快感はなかったのだから不思議だ。
一瞬彼が魔法使いに見えた。魔法ですね、と言ったら彼は、
「サンタクロースでも魔法は使えねえって。まあ魔法に近い力は使うがな」
屈託なく笑ってトナカイとソリが空を飛んだり、突然姿を消すことが可能な原理を説明してくれた。これも食事の最中の出来事だった。
ああ、ここも駄目だ。食事は彼との記憶が多すぎる。
掻き込むようにご飯を食べて(こんな食べ方を彼に見せたら怒られそうだ)、一人の昼食は終了した。
彼が来る前まで一人での食事に苦はなかったのに、今はこれほどまでに駄目になってしまった。自分で彼を見送ったくせに、こんなに苦しむなんて思わなかった。
しかし、食器を片付け部屋の掃除をしてから習慣のようにスーパーに買い物に行くのは、彼との記憶で苦しむと解っていながら、それを忘れたくないからなのだろう。我ながら女々しいものだ。
馴染みになったスーパーの入り口でなんとなく受け取ったチラシが料理のレシピで、僕にも出来そうな簡単な料理だったからそれを作ってみようと考えた僕はそれらの材料を探しに店内を見回った。そのレシピに書いてあったメニューはシーフードクリームシチュー。煮込むだけだろうと思って材料を買ってはみたが、帰ってレシピを詳しく読んでみると簡単ではなさそうな気がしてきた。
牛乳と生クリームを混ぜ合わせるタイミングが特に難しかった。慎重に混ぜ合わせた結果、なんとかそれなりに上手くいったものの不安がつきまとう。そのソースを仕上げ、野菜や肉を入れて数時間煮込んでいたらいつの間にか日は暮れ、午後九時を回っていた。
こんなに時間をかけて料理を作るなんて、これも彼の影響か。
レシピ通りの時間に鍋の蓋を開けると、キッチンにはクリームシチューのやわらかな匂いが広がった。どうやら上手くいったかもしれない。小皿に掬ったスープは野菜や肉のうまみが出ていて美味しい。
彼にも食べさせたいな。僕もシチューを作れるようになりました、と。面白いとも感じない年末近くにやる特別番組をぼんやり見て皿に盛ったシチューを食べながら、そんなことを思った。四人前のレシピのまま作ったからまだいっぱいある。食べ盛りな僕と彼で食べればすぐになくなるだろう。
彼はもういない、来ないと解っているくせになにを考えているんだ。期待を抱いたってもう会えない。無駄なことなんだ。
だが、僕は愚かだ。空虚感を感じるのに、会えないと解っているのに望んでしまう。
会いたい、と。
突然こんこんと窓ガラスを叩く音が聞こえた。
なにかが当たったのだろうか。思い違いかと思って部屋に一つしかない窓に目を向けたと同時に聞こえたのは「古泉」と呼ぶあの彼の声。小さくて、僕の記憶の中から呼ばれているような大きさで僕を呼ぶ声。
まさか、と思った。しかし、彼はもういない。クリスマスタウンに帰ったんだ。幻聴まで聞こえるなんてどうしたんだ、僕は。
しかし、それは幻ではなかった。今度は少し大きめの音で窓を数回叩かれる。
まさか。しかし、そんな。もう彼が来ることはない、と否定しながらも期待を抱くのは彼に会いたいと願うからか。
そうだ、それほどまでに僕は彼に会いたい。謝りたい。赦して欲しいとは思っていないから、出来うる限りの謝罪を彼に言いたい。そして、もう一つ。
カーテンを握り締めて、覚悟を決めて開けた。
そこには昨夜見送った時と同じ格好の彼が立っていた。
「……どうして……」
開けろと口を動かす彼の後ろには、初めて会った日と同じようにトナカイとソリがある。
僕は急いで窓を開けた。程よい暖かさの部屋が一気に寒くなろうと関係ない。早く彼に触れたかった。
ベランダに出て、謝罪より何より思わず名前が口をついて出た。あだ名ではないあまり呼べなかった彼の本名を。一瞬驚いた顔をしたが彼は照れくさそうに笑っている。
「メリークリスマス、古泉」
赤い服を着て、クリスマスの有名な一言を口にする彼は紛れもなくサンタクロースだ。しかも僕の掌になにかを置いた。カラン、と聞き覚えのあるベルの音がする。
彼の手が離れてそれの正体が明かされた。
「あの、これは……」
それには見覚えがあった。僕が隠し持っていた彼の大事なものだ。サンタクロースの証であり、クリスマスタウンへの通行証。これがなくてはサンタクロースだと証明出来ない。そんな大事なものを何故僕の手に置くのだろうか。
「お前へのクリスマスプレゼントだ」
しかし、これがないとあなたは。
「大丈夫だ。俺は新しいのをもう持ってる。今日子供たちのプレゼントを配り終えて、急いで帰って作ってきたんだ」
サンタクロースの証であるこれは、自分で材料を揃え作ると彼は言った。ベルはクリスマスタウン中心街にある一つの店でしか売っていない特殊なベルを用い、柊は実家の庭に植わっているものしか使えないんだそうだ。
「実家まで戻って、作るのに手間取ってな。来るのが25日ぎりぎりになっちまった」
彼は苦笑しながら自分のベルトにつけてあるそれを示した。彼の持つオーナメントのベルは真新しい。反対に僕の手の中にある同じ形をしたベルはちょっと古ぼけている。僕の持つこれは彼がずっと持っていたものだ。だったら尚更受け取れない。
「いいんだよ、俺がお前に持ってて欲しいからプレゼントしたんだ」
僕の手をやんわりと押しとどめながら彼は笑う。しかし、それは少しだけのことですぐにその表情は険しい色を濃くした。
「お前がしたことは決していいとは言えないことだ。ハルヒにもしこたま怒られた」
彼の表情と言葉に、解ってます、なんて言えなかった。僕のしたことはサンタクロースからしたら重罪だ。危うく子供たちにプレゼントを届けることが出来ず、もしかしたら彼の仲間に多大なる迷惑をかけていたかもしれない。改めて僕はとんでもないことをしてしまったと痛感した。説教も覚悟している。
「でもな、俺は怒れなかったんだ」
僕はよほど間抜けな顔で彼を見ていたのだろう。ちょっと笑って彼は続けた。
「お前が泣きそうな顔で笑って、行けなんて言うから」
あの時僕はちゃんと笑っていた筈だ。彼を見送るためにちゃんと笑っていた。笑おうとしていた。泣きそうな顔なんてしていない。
「いいや、泣きそうだったぞ」
お前器用そうに見えて不器用なんだよ、なんて言われてしまった。
恥ずかしい。好き嫌いや自分の欲を優先した子供っぽいところを見せただけでも恥ずかしいのに、これじゃ恥ずかしいを越える。穴があったら入りたい、まさにそんな気分だ。
「そんなお前だからほっとけなくて、来ちまったんだよ」
顔を逸らした彼の耳が赤い。
「僕が心配で?」
「……そうだよ」
それに、と彼の視線が僕と前で組んだ彼の指を彷徨い、一度大きく顔を逸らして、もう一度僕を見てから続けた。
「伝え忘れたこともあって、な」
一度言葉を区切った彼はまた僕を見上げ言った。
「お、俺も楽しかった……ありがとな」
真っ赤になって言う彼を、胸から込み上げる名の解らないものの衝動に任せて抱きしめた。驚いた彼が腕の中で身じろいだが、離したくなくて腕に力を込める。
ああ、やっと解った。
「聞いて欲しいことがあります」
彼にこうしてまた会えて、ずっと感じる空虚感の正体が解った。この感覚はこれを意味するものだと、初めて気付いた。
「あなたが好きです」
たぶん胸の痛みを感じていた時から。空虚感に苦しみ出した時から。ずっと好きだったんだ。
「同性の僕からこんなことを言われて嫌かもしれませんが、伝えるだけでも赦して下さい」
伝えるだけで充分だから。彼を抱く腕を解こうとしたら服を掴まれ、彼の方へ引かれる。俯いた表情は見えないが耳は赤いまま。
期待してもいいのだろうか。
「……俺も、お前のこと……嫌いじゃない」
その答えだけでも充分だった。
ありがとうございます、とまた彼を抱き締めた。今度は何も抵抗はない。ただ違うのは、背中に回る彼の腕。夜の寒い空気が当たるのに暖かかった。
「来年も来てくれますか?」
「お前がちゃんと料理してたらな」
真っ赤な顔色を少し戻した彼が「俺は見てるぞ」と言うものだからこれからはちゃんと作らなくては。
「善処します」
彼をもう一度抱き締めて僕は誓った。
大事なサンタクロースに会う為にちゃんと料理をしよう。料理があまり出来ない僕には大変だろうが、この決まった時期に彼に会えると思うと不思議と苦手意識はなくなった。
「寒かったでしょう。シチューがあります、食べていって下さい。ちょっと作りすぎてしまいまして」
呆れて笑う彼に僕も笑って返した。
もう空虚感は感じない。それがイコールで結んだ感情を知ったから。その感情が僕の中にある限り、彼と過ごしたこの部屋にいて悩むことも、料理を作ることで苦しむこともない。
僕は空虚感の代わりに、一つの大きな感情で満たされた。
カランカラン、と二つのオーナメントが揺れる。
また来年、今度は慌ただしくないクリスマスを彼と一緒に。
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