常々思っていたが、古泉は馬鹿な男だ


15498回中一度の、臆病者の願い



 八月三十一日。とうとうこの日を迎えてしまった。
 これで何度目だろうか。確か今回を含めて俺たちが夏休みの二週間を繰り返していることに気付いたのは約五千回。気付いていないシークエンスを含めるともっとあるそうだ。それら全てを長門は覚えているのだからすごい。しかしその長門でさえちょっと、それでも数ミクロン程だが、疲れが表面に出ている。そんなのを俺が覚えていたとしたらとうの昔に気が狂っていただろうことは安易に想像出来る。やっぱり長門はすごいな。
 この果てしなく続く夏休みをどうにかしたいと思うのだが、これといった解決策が思い浮かばなかった。頭を寄せ合って四人で考えてみたものの良い案は全く出なかったのだから仕方がない。あの長門でさえも自称ハルヒの心理スペシャリストの古泉でさえも。ましてや慌てふためく朝比奈さんや俺が、例の二人が悩むその問題を思い付く筈もない(すみません、朝比奈さん)。
 夏休み最終日のこの日にあれやこれやと考えても意味はないのだ。もうループした先の俺たちに任せるしかない。
 そうなると今日はする事がない。団長殿の言葉により今日はお休みになったのだ。本来ならば手つかずになっている大量の宿題を片付けるべきなのだろうが、新学期が来ないと解っていてやる気が出ないのは誰もが思うことだろう。かく言う俺も同じだ。しかしそろそろ俺は宿題を溜め込まないことを学習した方がいいのかもしれない。それでも来年にはまた同じ事を繰り返すだろうがね。
 ぼんやり何をしようかと呑気に考えながら一緒にベッドで寝転がっているシャミセンをつっついていると、静かだった部屋に携帯が唸り声を立てた。床にほっぽりっぱなしにしていたそれを拾い上げて小さなウインドウを見れば、そこには見慣れた名前が映し出されていた。
 古泉一樹。SOS団の副団長。いけ好かない地域と時間が限定された超能力者。
 こんな何もない憂鬱な夏休み最終日になんの用だろう。
 携帯を開き、通話ボタンを押して耳に当てた。当たり前だが、そこから古泉の声が聞こえた。
『こんにちは。いかがお過ごしですか』
 あんなり良い気分ではないな。明日また八月中旬に戻るのだから。
『僕も同じくあまり……』
 さすがのお前でもそうだろうね、次の日にまた過去に逆戻りなんて誰も嫌だし気が滅入る。
 まあそうですね、という奴の苦笑を含んだ同意をそこそこに受け流して、何故俺の今の心情を解っていながら電話をしてきたのか訊いた。
『そうですね。では、本題に入らせて頂きましょうか』
 常と変わらない口調で古泉は、次のように言った。
『夕方、一緒に天体観測をしませんか?』
 一瞬こいつは何を言っているのかと耳を疑った。聞き間違いでなければ、古泉は天体観測をしようと言った、この俺に。
 ちょっと整理しようか。
 古泉の言葉からすると、奴は天体観測をしたいようだ。まあこの間のSOS団天体観測の準備の最中、小さい頃の趣味が天体観測と言っていたから今でもやりたいのだろう。それは解った。
 だがしかし、それに何故俺を誘うのか。その理由が解らない。俺の疑問点はそこだ。
『どうしました?』
「あ、いや……一つ訊いていいか?」
 俺の疑問詞に古泉はどうぞと答えた。
「お前が天体観測をしたいのは解った。だが、何故それに俺を誘うんだ?」
『………気軽に誘えるのがあなただけだったから……では駄目でしょうか。夜に女性陣の誰かを誘うのも気が引けますしね。その点、あなたなら気軽に誘えます』
 まあそうだろうな。もし古泉が朝比奈さんを誘おうものなら全力で阻止する。
『そういう理由になりますが、どうでしょうか』
 俺はちょっと悩んだ。
 この誘いを断ったところで今日やろうとしていたこともないし、することもない。ただのんべんだらりんと過ごす予定だったのだ。だから、古泉の誘いに乗ろうとも支障はない。
「行ってやるよ」
 俺はまあいいかという気分でその誘いに乗った。
『ありがとうございます。場所は北高の屋上を予定しています。高台かつ屋上なら高さがありますしね』
 夏休み、しかも最終日に学校に入れるのかね。
『それはご心配なく』
 ああ、うちの高校にも『機関』の息がかかっていたな。しかし、『機関』ってのはどういう組織なんだか。未だに解らん。
『時間は、そうですね……五時半くらいに。夕方、日が完全に暮れる前に金星を見てみましょう』
 古泉の声が通常時よりいくらか弾んでいる。本当に天体観測が好きなんだな。この間はいつもの古泉だったが、今思うと内心嬉しかったのだろうというのがなんとなく解るかもしれない。望遠鏡はほとんど我の物とばかりにハルヒに占領されていてあいつ自身久々と思われる天体観測が堪能出来たかどうかは解らんがね。
 また夕方に、という言葉に返事をして通話を切った。
 約束の五時まで約五時間。それまで少しばかり寝られそうだ。
 瞼を閉じて睡魔が訪れる寸前、少しばかり(本当に少しばかりだ)楽しみだったのは心の中に仕舞っておく事を主張する。


 いつものハイキングコースを夕方に登るという貴重な体験をして北高の校門前に着くと、見慣れた制服姿の古泉があのごつい天体望遠鏡を抱えて立っていた。
「時間通りですね」
 お前が早すぎるだけだ。
 いつもの不思議探検といい、夏休み中におけるSOS団の集まりといい、こいつは待ち合わせ時間の何時間前に来ているんだ。俺だって待ち合わせ時間より十分少々早いくらいなのに、古泉を始め長門も朝比奈さんも早い。俺だけ待ち合わせ時間を遅く告げられているのかを疑ったこともあったくらいだ。
「さて、行きましょうか。夏休み最終日でも部活がある部もあるみたいで」
 なんだ、『機関』の息がかかっているわけじゃなかったのか。
「天体観測をするのに、そこまでしませんよ。ああ、でも屋上の鍵入手の為にちょっとした事はしましたが」
 やっぱり『機関』の伝手、使ったんじゃねえか。
 古泉は俺の怪訝な視線をいつものスマイルで無視して、先に歩き出した。それは肯定ととっていいんだな。
 見慣れた校舎の昇降口を通って(上履きは今現在うちに鎮座しているから職員専用口にあったスリッパをこっそり拝借した)、これまた慣れた階段を登り、俺のクラスのある階を通り過ぎて春にハルヒに無理矢理連れてこられSOS団を作るとかなんとか宣言した屋上への入り口に着いた。古泉が望遠鏡を抱えていない方の手でポケットから屋上の扉と思しき鍵を取りだして、それを開けた。その鍵の入手経路はもう追求しない。
 暗い校舎内から出た先には、夕暮れの空が広がっていた。
 空半分が紫で、もう半分が赤。その中央は二色が綯い交ぜになって言葉では表現出来ない色になっている。西では太陽が夜更かしをして、東では早起きな星が早く寝ろとばかりに太陽を急かしているようだ。そう考えると少し笑える。
 俺が太陽と星の奮闘劇を眺めている間に古泉はせかせかと天体望遠鏡の設置をしていた。三脚を立て、その上に望遠鏡を固定する。何度も角度を確認しながら慎重に動かす。こういうのは詳しい奴に任せるに限る。一分ほどそうして満足した古泉は立ち上がっていつものスマイルを浮かべていた。
 ……ん? なんか違う。いつものにやけスマイルとちょっと違うな。なんというか、楽しくて仕方がないって感じか。ハルヒ専用イエスマンじゃない、趣味に興じる男子高校生なら普通の笑顔に近いもの。
「どうしました?」
「いや」
 そう言ったものの、少しばかり気になる。
 古泉にしては珍しい。
 放課後を共にするようになって数ヶ月しか経ってないが、多少長門と同様に古泉の表情の違いも解るようになってきた。奴のいつもの笑顔は人を寄せ付けそうで、実は寄せ付けないようにしているものだ、と俺は常々思う。当たり障りのないという表現がぴったりな笑顔を浮かべて、ハルヒの我が儘な言動に反する事なくイエスマンをしている。それが俺もハルヒも知っているあの古泉一樹だ。
 だが、今目の前にいる古泉はどうだ。
 あの古泉の笑顔を仮面と言うならば、今はその仮面が少し剥がれかけているという感じだ。もっと詳しく言えなんて言われても、俺もよく解らん。ただそう思うのだ。
 難しい迷路に迷っているように考えていたところで、古泉のスマイルは通常営業用に戻った。
「時間もありませんし、探しましょうか。おそらくこちらの方に」
 金星の位置に目星を付け、古泉は望遠鏡を覗いた。
 さっきのは何だったんだ。俺の気のせいか。気のせいじゃなかったらどうしてだ。
 そうだ。電話口の声だけでの判断だが、古泉は天体観測を楽しみにしていた筈だ。だからあのスマイルがちょっと崩れただけ。きっとそうだ。
「見つけましたよ。あなたもどうぞ」
 ほら、いつもの微笑み君じゃないか。気にするだけ無駄だろう。
 やけに古泉を気に掛けてしまったことに気恥ずかしさを覚えながら金星が見える方面へ固定された望遠鏡を覗いた。
「どれどれ……この光ってるのが?」
「そうです。星よりも大きく明るいでしょう? 太陽、月の次に見つけやすい惑星です。地球から最も明るく見える惑星でもあります」
 そう説明する古泉の声は、やはり弾んでいた。

 天体観測が幼い頃の趣味だ、と言った古泉の天体に関する知識は半端なかった。
「金星の直径は一万二千キロメートル、地球よりやや小さいくらいですね。太陽からの距離は一億八百二十キロメートル、地球より少し太陽に近いです。自転周期は八ヶ月、公転周期は七ヶ月です。自転がこんなにゆっくりなのは、自転と公転の向きが逆だから。他の惑星にはないことなんですよ」
 金星の直径、太陽からの距離、自転・公転の周期など元天体少年古泉の口から出てくるのは細かな天体知識。本当に天体が好きな奴なら、初めて計算の魅力に取り憑かれた優秀な小学生が目を輝かせるように、嬉々として調べそうな事柄だ。  天体関係、いわゆる天文学というものはあらかた大学でその専門の学部に行かなければ詳しく学べないだろう。それ以外の方法となったら、独学だけだ。ということは、古泉はこの知識全て独学で頭に入れたに違いない。さすが特進クラスなだけあるな。
「日本では古来、朝に見える金星を『明けの明星』、夕方に見える金星を『宵の明星』と呼んでいます。今は夕方ですから『宵の明星』ですね」
 それなら俺も知っている。中学の時、理科の先生が余談で話していたのをうっすらと覚えているな。
「愛と美の女神アフロディーテが金星、英名のビーナスの由来と言われている程金星は綺麗ですよね。しかし、地球から見られるその美しさとは裏腹に地上は地獄です。大気の組成は大半が二酸化炭素、わずかに窒素を含むくらいです。その二酸化炭素の雲で金星表面は覆われ、平均気温が四百℃……気温が極めて高いのは二酸化炭素ばかりの大気で地球温暖化と同じ温室効果が起きていることが起因となっています。そして、時速数キロメートルの風と共に硫酸の雨が降るとんでもない世界なのです。想像しても恐ろしいでしょう?」
 確かに。四百℃なんて言ったら業務用大型オーブン並だな。大型オーブンもそこまで高温になったかはあまり知らん。しかも時速数キロメートルの風って台風より凄いんじゃないのか。硫酸の雨が降るとかも信じられん。美の名が付きながら、現実は恐ろしい。美しいものには棘があるってやつか。火星とは反対のお隣さんにそんな恐ろしいものがいるなんて思ってもなかったぜ。
「それでも美しいものは美しいのですよ。他の地域でも、神話の女神の名で呼ばれたり女性名が付けられているのです」
 また望遠鏡を覗きながら古泉は解説の続きを再開した。その中にはだいぶマニアックなものと思われる話もあり、物理なんか持ち出してくるものだから俺の脳みそではほとんど理解出来なかった。もう少し簡単にしてくれ。
「すみません。久々に見たものですからちょっと熱が入ってしまって」
「まあ別に構いやしねえよ。お前、楽しそうだしな」
「そうですか? お恥ずかしい」
「恥ずかしがる事じゃねえだろ。楽しめるものがあるのはいい事だ」
「確かに楽しいですね。あなたはどうです?」
 そこそこにな。
「ふふ、そうですか。さて、金星の説明を続けるか、他の惑星を探すか、どうしますか?」
 お前の好きにしてくれ。
 そう返したせいか結局古泉は金星のレクチャーを続け、他の惑星に移動する前に古泉が買ってきたおにぎりを食べた。屋上での飲食が可能かは気にしないことにする。
 古泉の相変わらず回りくどい(しかしそれでいて最後まで辿り着くのだからなんだかすごいもんだ)説明は結構長かったようだ。青と紫のグラデーションは闇に侵食され、紫紺と星しかない。夕方と明け方にしか観測できないというさっきまでグラデーションの中で輝いていた金星はもういない。ここに来たのが五時半頃だったから小一時間ってところか。その間も奴は楽しそうだったな。
「次はどうしましょうか。発見出来るか解りませんが、木星を探してみますか?」
「そんなに探しにくいのか?」
「金星の次に明るいので見つけやすいとは思いますが、火星が接近していると火星の方が明るくなってしまうので少し解りづらいかもしれないですね」
 この間はその赤いお隣さんを観測してたし、今日も接近しているのならちょっと見つけにくいかもな。
「まだまだ時間もありますし、探してみましょう」
 慣れた手つきで望遠鏡を操作しながら、今度は木星のレクチャーまでおっぱじめた。やっぱりな。この説明好きめ。
 ええと、木星の直径は十四万二千九百八十四キロメートル、地球の十一倍だとさ。という事はすごく重いんだな。その質量は木星以外の惑星を合わせても二倍くらいあるらしい。でかすぎる。
 太陽からの距離は七億七千八百キロメートル。地球との間に小惑星と火星を挟むらしいが、ずいぶん遠い。
 自転周期は十時間、公転周期は十二年。十時間でぐるっと回っちまうって事は自転が速いのか。でもその分公転に十二年かかるから何とも言えんな。
「気温は金星とうって変わって、マイナス百四十℃になります。太陽から少し離れるだけでこれだけ寒くなってしまうのです。あ、見つかりましたよ」
 さっきと似たようなレクチャーが途切れ、少し弾んだ声で木星発見を告げた古泉と替わって望遠鏡を覗いた。
「なんか楕円形に見えるんだが……」
「ああ、それは、木星の自転速度が速いのは先程説明しましたが、それが関係しているのです。自転が速いことで遠心力がかかり赤道方向に膨らんだ楕円形をしているんですよ。実際は地球のようにほぼ丸いですがね」
 そこからはまた組成やら木星の特徴やらのレクチャーが始まった。
「木星は『太陽になりこそねた惑星』と言われています。どうしてか解りますか?」
 天文関係に疎い俺が知っていると思うか?
「説明しましょう」
 この『太陽になりそこねた惑星』という話は結構興味深かった。
「もし木星の今の質量より七十倍あったら、中心部に強い圧力がかかり核融合を起こして太陽と同じように自ら輝く星になったと学者の間で言われています。今の質量になったから、木星は木星と言われているのです。これってちょっとした運命ですよね」
 お前ってそんなロマンチストだったか?
「どうでしょうね。でも、あなたはこの木星の話、どう思います?」
 俺は逡巡して、
「……中々に面白いんじゃないか」
 と陳腐な返事をした。そうとしか思えなかったのだ。
 地球だって太陽との絶妙な距離、大きさなどが偶然相俟って出来上がった惑星だ。木星も偶然太陽より小さいから今の木星になった。偶然が重なって出来上がったのがこの銀河系なのだろう。
「あなたも面白いことをおっしゃいますね。でも、今がこうしてあるということは、その偶然は必然だったのです。涼宮さんやあなたと出会えたことも、神に選ばれた超能力者としての僕も。惑星の成り立ちも僕たちの出会いも全ては偶然で必然だったのではと思うんですよ」
 少し古泉らしくない発言だな。しかもさっきも見た少しばかり通常営業の微笑み君じゃない。
「変なことを言ってしまいましたね、すみません。気を取り直して衛星の一つでも見てみましょうか」
 俺がじっと見てしまっていたことに気付いた古泉は謝罪を返し(俺自身じっと見てたなんて謝罪を聞いてから気付いた)、望遠鏡を覗き込んだ。
 微妙な空気が流れたまま、レクチャーもほどほどに古泉が何度も衛星探索を試みた結果、一つ見つけることに成功した。
 手元に詳しい本がないからどの衛星かは解らないと古泉は言っていたが、名前が解らないながらもなんだか楽しくなった俺と天体少年は色々語り合ってしまった。博識な奴に比べて惑星の知識はそこそこな俺でも語り合えるような軽い内容だったが。
 SOS団男同士、ボードゲーム以外でも話せることはあるものだ。いつもハルヒ関係の話ばかりだから少し新鮮だ。ハルヒハルヒばっかり言ってないでお前の趣味を話せばいいのにな。聞いてやらんことはない。
 その時の古泉はやけに楽しそうで、ほんの少しかもしれないが心から笑っていたように思えた。
 そして不本意ながら、古泉と普通なこと(と言っても天文関係だったが)を話せたことが俺はやっぱり嬉しかったらしい。嗚呼、なんか忌々しくてむずがゆい。
 屋上に停滞していた微妙な空気は夏風がどこかに持っていったようだ。

 壮大なスケールにまで拡大した話が一段落して、暫しの沈黙の間に一度沈没した筈の疑問が浮かび上がってきた。古泉の電話の時から気になっていた疑問だ。気付いた時には口をついて出てしまっていた。
「なんで、俺を誘ったんだ?」
 今と同じ俺の問いに古泉は少しの間を開けて答え、しかもその回答が曖昧だった。あの時は女性陣という単語に気を取られてあまり気に留めなていなかったが、夕方からの古泉を見ていたら沈没船が突然浮上してきたように湧き上がってきてしまったのだ。ただ天体観測を出来て嬉しいのか。しかもそれを俺として楽しいのか。俺と出逢えたとらしくない言葉と表情に好奇心が背中を押された。
 昼間と同じ問いに古泉は微笑を浮かべたまま、
「昼間も言ったでしょう。気軽に誘えるのがあなただったから、と」
「その答えはあの時思い付いたもんなんじゃないか?」
 率直に思ったことを古泉の言葉を遮って返せば、いつもは饒舌な口が閉ざされた。これは図星ととっていいのか?
 奴も俺も無言になってしまったせいで男が見つめ合うというなんとも気持ち悪い今の状況を遠くへ追いやることも出来ず、夏の夜の音だけが響く。何か言え。
 お前はエスパーなんだったら気付け、俺の心の声に。ていっても古泉は時間地域限定超能力者だったな。しかも、心を読むとか世間一般的に認識されている超能力ではなく、赤い玉になって≪神人≫とやらを狩る超能力者。
「…………もう今回の夏は終わりですからね。……聞いて頂けますか?」
 日常の喧噪の中で聞き取れるか否かのような音量、つまり静かなこの場所では自然と耳に入ってくる大きさで古泉は俺に請うた。暫く待たされた焦れったさになんだって来いって気分だ。
「僕は……あなたが、好きです」
 古泉の答えに含まれる単語の意味を理解するよりも早く古泉は、
「この気持ちを伝えてしまっては駄目と思っていました」
 いつもより早口に余裕がない口調で捲し立てた。
「あなたにこの気持ちを伝えてしまったら世界はどうなるか解りません。これは『機関』にとっても危ういこと。だったら伝えずにいればいい、ずっと秘めていればいいと考えていました。でも、今回の僕はどうしたんでしょうね、魔が差したとしか言えません。他でもないあなたを誘ってこうしているんですから」
 諦めが滲み出た視線を俺に向けながら尚も捲し立てる。
「どうせまた八月十七日に戻るなら、あなたと一緒に過ごしてもいいなと思ってしまったんです。このまま九月に進むとしたらこんなこと絶対しませんよ。……僕は臆病者なんです」
 そこでしゃべらなきゃすまないと言っていいような早口は、自嘲の言葉で止まった。俺たちの間に落ちるのは沈黙。諦めの視線は俺から外され、どこか曖昧なところを向いている。そんなところまで曖昧にするか、お前は。
 そんな諦めを全面に出して決戦する前に白旗を揚げている奴に、臆病に付け加えたい事がある。
「なんですか?」
「……それは、ずるいぞ」
「……そうですね。僕は臆病でずるい人間ですから」
 そこで言葉を区切って臆病でずるい男、古泉は夜空を見上げた。
「でも、好きな人を誘って自分の趣味で一緒に過ごすというのは、楽しくて嬉しいですね。もう記憶には残りませんが、今の僕は幸せです。ありがとうございました」
 通常のスマイルとは微妙な差を持つ微笑みを浮かべた古泉の左腕が後ろに隠れた。まさか。
「今日は本当にありがとうございます。僕は変わらずあなたが好きです」
 自分で腕時計をしていなかった事をこんなに恨めしいと思ったことは今までない。
 歯痒さに唇を引き結んだ直後腕を引かれ、訳が解らなくなっている隙に唇に柔らかなものが触れた。それもほんの一瞬。いくら経験値の低い俺でもこれが何くらいかは解る。
「好きです。好き、です……愛しいと思うほど胸が苦しい」
 不器用な笑い方になった古泉に俺も胸がつきりと痛んで、相手から唇を奪われた、しかも男に、何しやがる、と文句の一つも言えなかった。
 お前は馬鹿だ。臆病でずるくて、馬鹿な男。
 でも、俺はもっと馬鹿だ。
 今、大切な事に気付いたんだから、古泉と比べもんにならないくらいとんでもない大馬鹿だ。
「こいず……」


「……ん?」
「どうしました?」
「俺、お前と天体観測に行った事ってないよな」
「ええ。僕の記憶にもありません。誰かと間違えているんじゃないでしょうか」
「……そうだよな。すまん」
「いいえ、お気になさらず」
「キョン! 古泉くん! 早く始めるわよ!」
 俺の記憶の片隅に湧き上がってきた微かな残像を消すように、ハルヒの楽しそうな声が響いた。

Closed...



 好きです、好きです。もう言えないかもしれないから、今のうちにたくさん言っておきます。
 好きです。

 08.11.06