想起トリガーの匂いは、残酷に
この匂いは。
離宮に足を踏み入れた瞬間に漂ってきた微かな香りに、足を止める。これは、と海馬の底からその香りに起因されて呼び起こされる記憶がある。ちょっとした些細な出来事の記憶だったから今まで思い出す事が無かった。
『彼』の部屋で一度……。
あまり思い出すものではない。そう言い聞かせ、石像のように止まっていた足を叱責し動きを再開させた。
使用人が最低限しかいない此処は静かだ。現に自分の靴音しか聞こえない。カツカツ、と軍靴の特徴ある音だけ。
玄関ホールを通り抜け、中庭に出る。彼女は陽の出ている時間のほとんどをその中庭で過ごすから、部屋に行くよりも中庭に行った方が見つかる。案の定、中庭に続くバルコニーに出るとすぐに見つかった。目が見えない彼女は他の感覚が人より敏感らしく、バルコニーにもう一度足が着くと顔を上げた。
「スザクさんですね」
ふわりと柔らかな笑みを愛らしい顔に浮かべる。それがどことなく儚く笑う『彼』に似ている……なんて、僕は何を考えているんだ。『彼』はもういない。
「調子はどうだい?」
ふと浮かんできた『彼』の笑みを消すように首を振って、彼女へ言葉を投げかけた。他に言いたい事が思い付かなくて、在り来たりな陳腐な問いしかこの口を出なかった。
「大丈夫です。最近はあたたかいですし」
鈴を転がしたような音、というのは彼女の可愛らしい笑いの事を言うのだろう、なんて思った。彼女は変わらない、小さな頃から何も。その笑いも、柔らかな笑みも、実は頑固なところも。それは、彼女の心が変わらず強い事を意味しているのかもしれない。
「お兄様も風邪を引いたりしていなければよいのですが」
「……」
僕はその言葉に返事をする事が出来なかった。
彼女と『彼』を離れ離れにしたのは、僕だ。ゼロである『彼』を皇帝陛下に差し出し、ナイトオブラウンズの地位を手に入れた、汚い僕。ゼロが法の下で裁かれれば、と思い、『彼』を差し出した。だが、結果はこうだ。
何も知らない彼女と記憶を改竄された『彼』は、ブリタニアとエリア11、と遠く離れ離れ。『彼』が捕まれば当たり前のように離れ離れになるが、こんな離れ方になるなんて思ってもいなかった。これは浅はかな僕が招いた現実だ。
彼女の傍に、最愛の兄である『彼』はいない。そして、彼女を覚えている『彼』も。偽りの弟と記憶を持って遠いところで暮らしている。彼女はそれを知らない。その重さが、罪悪感として僕にのし掛かる。
「ナナリー」
つきまとう『彼』の姿から逃げたくて、僕は違う話題を彼女に投げかけた。
「この花は? どこかで鼻にした匂いなんだけど」
ああ、と彼女はまた柔らかな笑みを浮かべた。
「お兄様の好きな花です」
訊かなければよかった、と思っても後の祭り。あの花の彼女の言葉が頭の中にするすると入ってきて、記憶を刺激する。脳裏に浮かぶのは、『彼』。
「お母様がお兄様に誕生日にプレゼントされてから好きみたいで。同じように私の誕生日にプレゼントして下さったり、部屋に飾ったりしていたんですよ」
お兄様は本当に好きなんです。彼女の嬉しそうな声が僕には責めているように聞こえた。
お兄様は何処? 早く逢わせて、と。
もちろん彼女はそんな事を言わないから、僕の勝手な思いこみ。でも、そう聞こえてきてしまう。同時に、『彼』との会話まで思い出してしまった。
『この花は?』
『ああ、リビングに置こうと思って買ってきたんだが多くてな。他の置く場所が無かったから俺の部屋に置いた』
『いい匂いだね』
『だろう。俺の好きな花だ』
『君にも好きな花があったんだ』
『失礼だな。お前にも分けてやろうと思ったがやらん』
『ごめん、ルルーシュ』
『……判った。一本だけだぞ』
『ありがとう。でも、何処に飾ろうかな』
『花瓶くらいあるだろ?』
『うーん……あったかな。コップならあるんだけど』
『馬鹿か。コップに生けてどうするんだ。花瓶に生けてこそ、花の価値がある』
『でも、急に花瓶って言っても……。もう店も閉まっちゃってるし』
『仕方ないから花瓶も貸してやるよ』
帰り際、彼は呆れたように笑って、花瓶と花を差し出した。
「スザクさん?」
「あ、ああ……ごめん、ナナリー。大丈夫だよ」
真っ直ぐに見てくる彼女にまた大丈夫、と伝えて僕は立ち上がった。思い出してしまった記憶を振り払うように。
「あ、待って下さい」
慌てて呼び止められた。何だろうと視線を合わせるように膝を着いて彼女を見る。
「スザクさんにもあの花を差し上げますね」
「……」
何も、言葉が出なかった。少しお待ち下さい、という柔らかな声が遠くに響いているよう。
あの花が傍にあったら嫌でも『彼』を思い出す。思い出したくないのに、その匂いに引き出され記憶が呼び起こされる。毎日毎日『彼』が思い出されるなんて。
使用人の方がナナリーに切り分けてきた花を差し出した。それはすぐに僕の手元に。
嗚呼、あの匂いだ。また脳裏に『彼』が浮かぶ。
「花瓶がありましたら飾って下さいね。部屋が華やぎますよ」
ありがとう、といつもの調子で言えただろうか。彼女が何も言ってこなかったから言えたのだろう。
離宮を出て部屋に戻る道を歩いている間もその匂いは僕を刺激し、記憶の中の『彼』を呼ぶ。笑ったり、意地を張ってそっぽを向いたり、ぶっきらぼうに見えて優しく手を握ってくれたり。あまりにもそれは鮮明だった。
嗚呼、毎日『彼』を思い出しながら過ごすのだろう。そう改めて確信した。
その花は、『彼』に返しそびれた花瓶に生けられ、今日も柔らかな陽を浴びている。
そして、部屋に戻るたび、僕は『彼』を思い出す、残酷に。罪悪感に押しつぶされそう。
儚く笑って、僕を呼ぶ。
『スザク』
と、嬉しそうに。
今の僕には、残酷な記憶。
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