鉄錆の匂いに、華は
「おい! 大丈夫かよ!」
リヴァルの声に振り向くと、ルルーシュが怪我をしていた。瞬間、この生徒会室は血の匂いが充満している事に気付いた。駄目だ、思い出してしまう。駄目だ、抑えろ。
彼は生徒会の書類の破棄、整理中にカッターを滑らせて、掌を少し切ってしまったみたいだ。僕が持っていたハンカチで一応の止血はしたが、まだ止まらない。証拠に血の紅が白を侵蝕している。彼の手さえも。駄目だ、彼は血に染まってはいけない。
「ルルーシュ、保健室に行こう」
「もう閉まってるだろ。リビングに行けば救急箱があったからそれで。確か戸棚に……」
「判った。僕が持ってくるから部屋に戻ってて」
ルルーシュの返事を聞かずに僕は、皆が慌てる生徒会室を飛び出した。これ以上あの匂いを、あの色を見ていられそうにないから。
あの色は僕の手の色だ。父さんを殺し、多くの日本人を死に至らしめた罪の色。そんな色に彼が染まっていい訳がない。彼は妹と一緒で何よりも綺麗で、僕なんかとは違う。逢えなかった七年間に何があったかは知らないけれど、彼が綺麗なのは確かである。軍に入って多くの日本人を殺して汚れた僕とは違う。だから、あの匂いと色を早く消さないと。
足早に駆け込んだリビングには誰もいなかった。言われた通りの戸棚には救急箱が入っていて、その取っ手を引っ掴んだ。がつっと戸棚の扉にぶつけてしまった音で、そんな事気にしている余裕が無いくらい自分が慌てている証拠なんだ、とどこか客観的に思った。早く、あの色を彼から消したくて、気にしていられなかったんだ。
何度か訪れ、知っている部屋に駆け込めば新たな白い布で傷を押さえる彼がいた。
無言で細い腕を掴んでベッドに座らせ、傷を覆う布を剥ぎ取る。一部止血しているが、それはほんの一部。押さえを失ったそこからはまた新たに紅がしみ出てくる。
(また、だ)
鼻をつく鉄錆の匂い。
早く、早く。この空間から消すんだ。
「っ……馬鹿…、もう少し、弱く……」
「ご、ごめん」
彼の苦痛に歪んだ眉と言葉に、薄めのオキシドールをしみ込ませた脱脂綿を強く傷に押し付けていた事を僕は初めて知った。止血していた場所まで血が滲んでいる。僕のせいだ。
「ごめん、すぐ終わらせるから」
新たな脱脂綿で今度は優しく血を拭いながら傷を清潔にする。徐々に血が固まっていく様を目にして、ほっとした。血液というのは放っておけば血中に含まれる成分で固まるらしいが、ハンカチに染み出てくるあの紅を目にしていた時は本当に止まらないのではないかと一人不安だった。冷静になってみると、おかしい考えだと自嘲したくなってくる。
消毒を終えた傷にガーゼを被せ、白い手を更に白い包帯で巻いていく。そんな大げさな、と呆れた言葉が耳に入ったが、聞こえないフリをした。まだ完全に固まっていない血がガーゼに少し染み込んだ瞬間、それを見ていたくなかったから、包帯で幾重にも傷を包んだ。
やっと訪れた端を留め具で押さえ、彼の手をそっと両手で包む。嗚呼、当たり前だけど、彼は生きているんだ。
「お前は大げさだな、本当」
顔を上げると苦笑した表情が視界に飛び込んできた。
「結構深かったからこれくらいした方がいいんだ。ちゃんとしないと化膿するよ」
あの紅をもう見ていたくなかった。
僕の勝手な願望が大半を占めるのに、僕は笑みさえも浮かべていけしゃあしゃあとその言葉を口にした。そんな風に笑って嘘も吐ける。さながら役者みたい、ただ僕の勝手なだけだが。
顔には笑みを浮かべたまま、彼の手をゆっくり撫でる。
もう痛くないかな、あ、でも怪我したばかりだからまだ痛い筈。痛みが暫く引かないようだったら鎮痛薬を飲まないと。鎮痛薬あるかな。
鎮痛薬の存在を確かめる為に視界に救急箱を入れる寸前、紅がまた視界に入ってしまった。
(まだ……残ってる)
怪我をした左手の袖口と手首。白いカッターシャツの袖、白い腕にあの色が広がっている。
「……ルルーシュ、袖」
「あとで洗濯をすればいいさ」
左手をひらひらと揺らしながら彼は何でもなさそうに言った。
(駄目だ、ルルーシュが汚れたままだ)
彼は綺麗なんだから、彼にはその色が似合わないから、腕のその紅を消さないと。汚れている僕が消さなければ。
「今日はもう仕事、出来ないだろうな」
やれやれと彼が嘆息したのがやけに遠くに聞こえて、ただ目が紅にだけ向かう。
消さないと、綺麗にしないと。
呼び掛ける声に何も答えず、その腕を引き寄せた。
「スザク?」
そうだ、僕が綺麗にするんだ。しなければならない。
紅に侵蝕された手首を、僕は、舐めた。
「っ、スザク!」
振り解こうと力を込められる腕を、更に強い力で引き留め、逃がさぬように。苦痛に呻く声が聞こえても離さない、彼が綺麗になるまで。
乾きつつある血は何度も濡らさなければ拭えない。だから、何度も丹念に、丁寧に舐めて濡らす。 嗚呼、彼の血の味がする。
「っ、スザ、」
息を詰めた声。舐められる感触に耐えようと微かに動く身体。その姿は彼との非生産的な行為を思わせた。だからか、重心を傾け、彼をシーツに沈ませるに至ったのは。
「っ……何を!」
左手を捕らえる手はそのままに、反対の手で細い肩を押さえる。
「まだ……綺麗にならないから」
「……は?」
「血、取れないからさ」
まだ白を侵蝕して残っている。ちゃんと綺麗にしなきゃ。にっこり笑みを浮かべて言うと、彼は押し黙った。勝手にしろ、とその表情が語る。
袖口が細いから上を左だけ脱がせて、カッターシャツの袖のボタンを外して捲る。そして、濡らして舐め取る。何度か繰り返していると、その白いキャンバスみたいな肌は、紅が無くなって真っ白に戻った。
「綺麗になったよ。君には血が似合わないからね」
君は綺麗だから。
そう言葉をかけて、肘から手首にかけてまた舐め上げた。ぴくっと身体は震えたけれど、長い前髪に隠れて表情は見えなかった。
「……俺は、……じゃない……」
呟くようなその声は僕の耳にまで完全には届かなかった。聞き返してもよかったが、彼は、なんでもない、と言う予感がしてそうはしなかった。
ルルーシュは、肝心な事を言わない事が多いから。こちらがいくら訊いても、一度言わないと決めたら言わないのが彼だ。見掛けによらず頑固だ、というのは昔判った。
昔と比べてがさつになったけど、そんなところが変わらない彼は綺麗だと思う。最愛の妹と同じで、綺麗な部分をたくさん持っている。汚れた僕とは、全然違う。
そう、全てが狂ったのは、あの時。僕が父を殺した日から。
七年前の記憶。今この部屋に充満する匂いと同じ匂いが立ち籠める中、父は床に倒れていた。その徐々に冷たくなる身体は、動く事なく床に横たわって。自分はその紅にまみれた刃物を手に、呆然としていただけだった。その刃物を手から離せば、手まで紅でいっぱいだった。洗えば落ちたが、その紅が落ちた気がしなくて何度も、何度も洗った。
あれから七年、あの紅、匂いを突き付けられる度に記憶から引き出され、僕を苛む。何度振り払っても、あの記憶は戻ってくる。
近頃はそこまで鮮明に思い出す事は無かったのに、彼の血を見ただけでまた思い出した。
(ルルーシュの血で、思い出すなんて!)
彼は綺麗だから、知られてはいけない。僕の罪を知らなくていい。
嗚呼、また浮かんでくる、血の海に横たわる父。僕が逃れる事を決して許されない罪。僕を戒める、荊。
駄目だ、これ以上出てこられたら、言ってしまう。彼には知られたくない、彼は知らなくていい。
喉の奥から僕の罪が出掛かった時、頬を細い指が掠めた。
「……ルルー、シュ?」
「お前が……泣いているから」
彼に言われて、頬が濡れている事に気が付いた。まばたきをすれば頬を伝う雫は増え、重力に従い落ちた。それは彼のカッターシャツを濡らす。ぽた、ぽた、と一点を作って彼を濡らす。
「俺の前くらい泣いてもいいんだ。女のように柔らかく包み込む事は出来ないが、泣く場所を与えるくらいは出来る」
だから、と僕の拘束をやんわりと解いた彼は起きあがって、頬を拭ってくれる。それでも涙腺が崩壊してしまったかのように溢れる涙にその手は追いつかない。
「お前はやっぱり涙もろいな。昔と変わらない」
彼は苦笑を混ぜて綺麗に笑った。
「……ありがとう、ルルーシュ」
頬に触れる手を取って唇を奪う。そっと身体を押し付けると、細い身体はまたシーツに埋もれた。
「ぁっ、ス、ザク…!」
ほぼ衝動だった。
彼を組み敷いて、前戯もほどほどに彼に自分を埋めた。苦痛を滲ませた表情に髪を撫でそっと口付けを施せば、彼も落ち着いてくる。それからは理性がほとんどないまま衝動に任せて。
ルルーシュは綺麗なのに、僕は汚している。それでもこの行為に至る事で、彼の傍にいる、と実感出来て、止める事は出来ない。彼も拒まないが、その理由は判らない。
衝動のままに抱いてしまった事に謝罪をしたが、彼は気にするな、と答えただけだった。人が気にする事、理由は問わない彼のこれは、僕にはとても心地よかった。
しかし、何も言わずに手を差し伸べてくれるその手を、まだ強く握り締める事は出来なかった。
僕は、臆病だから。
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