やがては幻になる、平穏の中で
暇な放課後だった。特にする事も予定もなく、ただこの暖かい部屋にいるだけ。
静かな生徒会室には、今三人しかいない。その内二人は向かい合ってチェスをしていた。スザクとリヴァルだ。二人から離れたところにいる俺から見えるスザクの背は、真剣そのもの。反対にリヴァルは余裕と言ったところだ。
スザクはチェスをした事がない。俺の記憶が正しければ。昔、枢木神社の土蔵にあった古ぼけた盤を使った将棋というゲームくらいしかした事がないだろう。それに、スザクは頭を使うゲームより、武道の方が得意だ。それは、今も変わらず。
「ほら、スザクの番」
「ちょっと待って……」
翠の眼が、白駒がやや劣勢な盤上を真剣に見つめ、次の手を探す。その眼は、己の劣勢に気付いているだろうか。そうでなければ、負けになる。リヴァルの方を見れば、己の優勢に満足しているのか満面の笑みが顔に広がっている。
(このままでは、スザクの負け、だ)
俺がどうこうするものではない。これはスザクとリヴァルの勝負なのだ。二人の。しかし、気が付けば椅子から立ち上がりスザクの傍に立ち、盤上を覗いていた。白の劣勢を優勢にする為に。思考が既にそうだった。なんて甘いんだ、俺は。
「スザク、」
そっと耳打ちを。白の優勢の為に。
『キングをe5に動かせ』
俺が良く使う手、だった。
「ルルーシュ…?」
「いいからそうしろ」
困惑した表情のまま、スザクはキングを手に取り、e5に置いた。そして、そこにあった黒のナイトを獲る。
「ずりーぞ、ルルーシュ!」
「リヴァル、次の手を打たないと負けるぞ」
そう返せば、リヴァルは渋々と黒駒を置いた。元々はそれほど悪くはない頭を持つスザクだ。そこからは白の優勢のまま、進んだ。
「チェックメイト」
白のキングとクイーンが黒のキングを追いつめて、終わった。己のキングを獲られたリヴァルが、恨めしそうに俺を見ているのは気のせいではないだろう。
「スザクはチェスをやった事がないんだ。これくらいいいだろ?」
自分への言い訳。本当は、スザクを助けたい、と思った自分の甘さが招いた事なのに。
「でもさ、この前使った手じゃなくても良くない?」
「この前?」
「貴族相手に不利だったやつで、キングから動かしたんだぜ。普通やらないって、この手」
「『王様から動かないと、部下がついてこない』、そういう事だ」
以前と同じ答えを返せば、リヴァルの反応は肩を竦めるだけ。反応をしたのは、スザクだった。
「なんだか、ルルーシュが誰かの上に立っている人みたいだ」
確信を得て言っているのか、率直に思っただけで言っているのか。真っ直ぐ向けられている翠が、その判定をあやふやなものにする。
「……って、そんな訳ないよね」
「あ、当たり前だろ。ただ、昔に手合わせした人にされた手だったから覚えていただけだ」
不自然ではなかっただろうか。怪しまれなかっただろうか。そんな疑問も、返ってきた言葉に杞憂に終わった。
「へえ。もしかして、その人に勝てた事ない?」
「ああ、一度も」
一度も、勝てなかった、あの兄に。
負ける度に悔しくて、何度違う手を施しても回避し、必ず優勢にし、勝利を獲ていった兄。兄弟の中で最も優れているそんな兄を、幼い自分は尊敬していたと共に、チェスでのライバルとも思っていた。その兄と手合わせするチェスが、一番楽しかった。今では、母の死の真相を知る者の一人だが。
「最後に手合わせした時に、あの手を使われたんだ。キングから動かす手法を」
最後の最後で、意表を突かれたその手。とても鮮明だった。
「ルルーシュ、その人にチェスを教わったんだね」
そう言ってスザクは白のナイトを手にして。
「だったら、今度は僕に教えてよ。君とも手合わせしてみたいし」
散らばった駒が乗る盤上にナイトを置いて。向かいには、黒のキング。
「ああ、今夜どうだ?久々に食事も。ナナリーも喜ぶ」
「いいのかい?」
「どうせ今日は俺たちも暇だ。軍はないんだろ?」
「じゃあ、喜んで」
向かい合わせの白のナイトと黒のキングをそのままに、スザクは立ち上がった。
「おーい、会長が呼んでる!」
扉が開いた先から呼ぶ声に、二人でそこから離れた。
盤上のナイトとキングをそのままに、また箱庭の中での日常が始まる。穏やかな日々が。隣に変わらぬ笑顔がある今の暇な時間が、ささいな幸せなんだ、と今更実感した。本当に、今更だ。気付くのが、遅かった。
いつかは、壊れる日常と知りながらも、ここへ身を置く。
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