Darjeeling
寒い廊下から室内に入った瞬間、いつもの珈琲の香ばしい香りがしなかった。代わりに漂うのは、紅茶の落ち着いた良い香り。数回程しか鼻にしたことがない香りだ。首を傾げる程の疑問だが、窓から差し込む午後の陽を背に座る男の机の前に着いたら、その答えがあった。
「珍しいじゃん、あんたが紅茶飲むなんて」
いつも珈琲ばっかりだ、と言えば男から返ってきたのは苦笑。湯気が微かに上がるそのカップに口をつけてから、少々濡れた唇が答えを紡ぐ。
「たまにはな。いつも珈琲では飽きるし、軍の不味いものばかりでは癒されない」
そしてまた一口。透明で綺麗な液体が口の中へ消えてゆく。エドワードはそれを何を言うでもなく眺めていた。そんな少年をどう思ったのか、ロイはカップから口を離しエドワードを見上げた。
「ダージリンだが、飲むかね?」
カップを軽く持ち上げる仕草をし、男はティータイムへのお誘いをかけた。
サボる口実なのではないかと始めは疑った。この傲慢な上司はエドワードが訪れる度、昼だ休憩だとエドワードを口実に仕事を一時中断するのだ。そんな男に呆れつつも優秀な副官は、久々に訪れる自分を疲れているだろうからとロイの分と合わせて菓子や紅茶を用意してくれる。ただし、ロイはいつも珈琲だったが。
いつものこれからを想像してしまい断ろうかとも思ったが、今の季節特有の乾燥がもたらした喉の乾きが何か飲みたいと切望している。そのせいか、手にしていた報告書を机に置き頷いた。
「では、とっておきのたしなみ方を」
油断していたせいもある。気が付けば、腕を強く引かれ机に半身を乗せる状態になって。
いきなりのことに上を向いたが、視界は真っ暗。それは、少々冷たくも自分の右手よりも暖かい大きな手だった。何も見えないとどうすることも出来ず、そのままこの上司流紅茶のたしなみ方を強行されてしまった。
唇が触れて、微かに開いた唇の隙間から温かな液体が口の中へ。それが紅茶だと理解した根拠は、舌を擽ったダージリン特有の苦味。舌全体をダージリンが滑った後は、まだ苦味の残るそれを男の舌がたしなんだ。視界は相変わらず真っ暗なままで、吸われ、なすり付けられ、絡められ、最後に唇を噛まれる。
真っ暗だった視界が明るくなり、目の前には悪戯が成功して喜んでいる男の憎たらしい顔がある。それは明らかにからかっている証拠。その表情を見るだけで今何があったのか瞬時に思い出し、次いで襲い来るのは大きすぎる羞恥。エドワードの顔は瞬く間に真っ赤になった。
「な、な……」
唇を手で覆ってもあの生々しい感触は残る。ぬめる舌が唇を口内を這い、最後に奥に縮こまる舌を捕らえて。こんな真昼に許されぬ、暗闇でのみであるべき秘め事を主張するような口吻けだった。知らぬうちにこの身体が覚えた口吻けによる愉悦が背筋を這い上がったことに更なる羞恥を覚え、憎たらしい顔を睨み上げた。
「お気に召して頂けたかな」
ダージリンをまた口にし、憎たらしい上司は笑みを含んだ言葉をエドワードへ投げかけた。それがエドワードの秘め事への羞恥、矛先を何処へ向けたらしいのか解らぬ怒りを身体の奥底から呼び出すと知っていながらも。
「誰が!」
誰があんな飲み方がいいなんて恥ずかしいだけだ。エドワードはまた口を手で塞いだ。だが、唇を拭おうとしないのはこの男からの口吻けだからだろうか。
嫌いな訳ではない。こういうところが苦手でむかつくだけなのだ。だからこそ、押さえるだけに留まった自分が不思議だった。同時に沸き起こるのは、この男に何か報復を出来ないだろうか、ということ。このままではロイの思う壺であり、更に調子に乗ってしまうから。
ありとあらゆる仕返しを考え付きながらも、最終的に行き着いたのは一つ。
同じことをするのはどうだろうか。
あの悪戯はエドワードが絶対にしないからした、と思っているに違いない。だから、同じことをして驚かしてやろうと。
逸らしていた視線を戻せば、報復を仕掛ける相手は満足したのか、自分が提出した報告書をのん気にダージリンをたしなみながら眺めている。それも立ったまま。そのカップさえ手に入れてしまえば万全だ。
この男が最初にしたのが悪い。そう言い訳をして。
机を周り、標的に近付く。同時にカップは机に置かれ、男の手から離れた。 これは絶好のチャンス。 紙面に集中しているロイからは見えぬようカップを手に入れる。そして、ダージリンを一口。あとは。
「鋼の、この報告書だが……」
ロイが紙面から目を離した隙に軍服の襟を掴み、男の重心が後ろへずれるよう体重を掛ける。何も構えていなかった大きな身体はそのまま後ろへ傾き、共に床へ倒れた。そしてその身体を跨げば、ほぼ完璧。
「は、はがね、の……」
後頭部でも打ったのだろうか、余裕だった顔に苦渋の色が広がる。その両頬を押さえ、計画の実行を図った。同じように。全く同じことを。
黒曜石の視界を奪い、口吻けて。開いている唇の隙間からダージリンをその口内へ。ダージリンの苦味が舌を刺激する中、同じくその苦味を味わっているだろう肉厚の舌をたしなむ。いつか眠る男に口吻けたように、その舌をなすり絡めて、吸い上げて。最後に唇を軽く噛むのを忘れずに。そっと触れた喉元がごくりと動き、ダージリンは飲み込まれた。
この男に全ての報復を終え、唇や手を離して上体を上げた。跨ったまま男を見下ろせば、口端から伝うダージリンを拭いながら自分を捉えた黒曜石と目が合い、細められるのを見た。
「君も中々やるな」
端から端へ指が己の濡れた唇を辿って、その唇から紡がれる言葉には楽しそうな色が滲み出ている。黒が細められているのが、何よりの証拠。床に寝たままのロイから伸ばされた手は頬に触れ、その傍の髪に触れる。それを振り払えなかったのは、その手付きが妙に優しいせい。そういうことにするしかなかった。
つくづく可愛くない。何かと理由を付けてロイが触れる事を許し、睨みつけることしか出来ない自分が。だが、恥ずかしいのだから仕方ない。
「満足かよ、大佐殿」
ほら、また。それでも、近付く唇を拒むことは出来ない。
軽く重なったそれはすぐに離れ、堪えるような笑いを零す。
「新しく紅茶を用意して、口直しするかね?」
「今度はセイロンにしろ」
あの苦味はいらないから。
「ああ、君のお気に入りのあのアップルティーを用意しよう。甘すぎないセイロンの」
エドワードを己の椅子に座らせ、ロイは受話器を取った。部下に新たな熱い紅茶を要求している。
「あんたって、ダージリンみたいだよな」
受話器を置いたロイが行儀悪く椅子に座るエドワードを見て首を傾げた。はて、どこが、と。
「なんつーか……ダージリンみたいに後味が残るんだよ、あんたの何もかも」
「それは、私が与えたもの全て覚えているということかな?」
遠からず、かもしれない。
口吻けも。身体中に刻まれた快楽も。数年前、心の内に点された焔も。今も消えずに。
「……さあな」
「私なりに解釈していい、ということだな」
「勝手にしろ」
くすくすとまた男の笑いが鼓膜を擽り、指先が悪戯に唇を掠める。それさえも、また振り払えない。
ダージリンの後味に、絆されて。そして、セイロンで口直し。どうせまた、ダージリンに染められてしまうけど。
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