Sleepy Kitty
「よお大佐」
ノック無しに扉を開け放ち遠慮も無い声を掛ければ、やあ鋼の、と返ってくる。筈だった。口を開けば嫌味ばかり言う上司、大人の余裕という雰囲気を纏った恋人。その人物が今日は珍しく椅子にいなかった。辺りを見回してもいない。という事は、この部屋にはいないという結果に繋がる。
「……どこ行ってんだ?」
寒い中折角来てやったのに、と言い訳を漏らしエドワードは口を尖らせた。だが、いつまでも入口に立っている訳にもいかず、扉を閉めて中へ歩を進めた。主が不在の今、何も音がしない。
歩み寄った広い机上には、珍しいことにいつも散らばっている書類が一切無かった。あるのは、手袋を外した大きな手が握るペン、何かの参考にしたと思しき厚い書籍、電話のみ。それらしかない机へ報告書の束を置く。かさりと紙の擦れる音が鳴った以外音がしなくなった。
どこかが違う。
主が居ないだけでこうも変わるものなのかと改めて実感した。人が居るだけで暖かさがある部屋というのは、人が居なくなるだけでその暖かさが消え寂しさを実感させる。
寂しい訳じゃないと誰に弁解するか解らない言い訳に激しく何度も首を振る。だが、冷静を取り戻してから目の前の机を見下ろすと、その何とも言えない寂しさが湧き起こっている。
「オレは……別に」
呟いたら余計に。
エドワードはまた振り切るように首を振って、机の脇を通り窓際に寄った。そこは冬だというのに、陽が当たり暖かい。それを背に受け室内を見渡せば、全体が視界に入った。その時、ふと思ったこと。 あの大人からはこんな風に見えるんだ。
机の延長線上に来客用のテーブルとソファ、重厚な扉。ここに入った時にあの男が真っ直ぐ見たところにいるわけだ。
背もたれの高い椅子に座って机の上で組んだ両手の上に顎を乗せて、人を食ったような笑みを浮かべて、真っ直ぐに見て。
『やあ鋼の』
あの低音が耳に響いた。男らしい低い声。脳の奥底まで響いて、離れないその声。
今日はそれがなかった、と残念がっている自分がいるということはやはり期待していたのだろうか。あの男とのやりとりを。そう思っているのが悔しくて、やや乱暴に上質そうな椅子にどかっと座った。ギイと微かに軋む音が響き、背が少し沈む。
柔らかく受け止める背もたれが心地良い。あの男の地位がどれほどのものか実感したくないのに、この身をもって実感してしまう。それほどにこの椅子はかなり上質のものだろうという事は言われなくとも解る。
音も無い中、窓から差し込む柔らかな陽に、徐々に瞼が重くなってきた。座り心地の良い椅子の効果もプラスされる。
昨夜遅くまで本を読んでいたのがいけないのだろうか。はたまた、早朝から列車に乗ったからだろうか。狭くなる視界と思考を鈍らせ始めた眠気で、それは定かではなかった。
「……早く戻って来いよー……」
此処の主の早い帰りを望む思考だけ残して。
琥珀は瞼の奥へ消えた。
「ご苦労だった」
会議室を出て廊下を歩いている最中、ロイは後ろを歩く部下へ労いの言葉を掛けた。部下は、いえ、と答える。目線は手元の書類へ。ロイは後ろを一瞥すると、また歩を進めた。慣れた廊下を暫し歩けば、もうすぐ己の執務室に辿り着く。また書類が机に乗っていると思うと、気が滅入ってしまう。
「中尉、今日決済予定の書類はどれほどあるかね?」
「今日はさほど。中央より寄せられたものが少々あるくらいです」
「……激励か」
「出る杭は打たれますから」
部下の言葉に苦笑で答え、己の部屋の扉を開けた。だが、そこから脚が進まなかった。後ろからの呼び掛けにやっと我に返り、ロイは笑みが零れた。
「待ちくたびれた猫が眠っているだけだ」
その声は嬉しそう。ホークアイは理由が解り、そうですか、と答えるとその場を後にした。
「……ココアと珈琲かしら」
ホークアイは苦笑を浮かべ、いつ持って行こうか、と書類を抱えて給湯室へ向かった。
室内には、眠る猫と男。金色の猫は、柔らかな光に包まれ、丸まってすやすやと寝ていた。
「おかえり、鋼の」
閉じている瞼と額に軽く口吻けを落として。気まぐれな愛しい猫を起こすとしようか。
Closed...