低いテノールで奏でられる、その懐かしい響き
そう最後に呼ばれたのは、いつだったか
鋼は、焔を駆り立てる
「失礼します、少将」 一応ノックをし、重厚な扉を開ける。中は窓から入る陽の光で明るく、仕事のしやすい環境だ。だが、この部屋の持ち主は折角良い環境が整っているというのにそんな素振りを見せない。
「少将……しっかり仕事して下さい」
「ああ、エルリック少佐。……また追加かね?」
「仕事をしないどっかの誰かのせいです」
仕事をしていない上司を見て、溜め息が自然と漏れた。目の前の革張りの椅子にふんぞり返って偉そうにしているこの男は、一応自分の上司ロイ・マスタング少将。
この男は書類の影で違う事をしていたり、いつの間にか抜け出してさぼったりと怠け癖のある少将だ。今までどれだけホークアイやハボックが苦労していたか。本当に将軍職に就いているのか、と疑いたくもなる。
「今日中にこの机の上にある書類全てを処理しなければ、帰れないと思って下さい」
「……今日はやるか」
「いつもやって下さい」
大きな音を立てて手に持っていた書類の束を置き、部屋を出ようと背を向けた。
「鋼の」
久々に聞いた、懐かしい響きが鼓膜を震わせる。ここ一年間呼ばれることの無かったその『銘』で呼ばれたせいか、エドワードはすぐに反応出来なかった。
「……何ですか、少将」
「久々に呼んでみただけだ。それと……この名を呼んだ時は、いつもの君に戻ってくれないか? どうも君の敬語には慣れなくてね」
それはこの男なりの配慮か。
「わかった」
正式に軍に入隊した時に比べれば慣れたといってもいいが、やはり今まであまりそれを使うことの無かった相手に使うのは些か違和感がある。
「てっきりオレに敬語を使わせるのを喜んでるかと思ったけど」
振り返れば、仕事中には見せない笑顔を浮かべた男がいた。
「その反対だよ。階級で呼ばれ、敬語を使われていると、どこか遠くにいるように聞こえてあまり好きではないのだよ」
「ふうん。じゃあこれも久々だよな? ……大佐」
呼び慣れた、階級名。まだ幼かった自分が弟と共に各地を旅していた頃はこの男はまだ大佐だった。准将は旅が終盤へ近付いた頃。少将はついこの間。一番呼んでいたと記憶しているのは、大佐だ。
「もういつの事だったかな、大佐は」
「オレが国家錬金術師の資格を取った頃だろ? もう数年も前じゃん」
「あの頃は若かったね。君も、私も」
「オレはともかく、あんたは三十路に近付いてたからオレからしたらおっさんだった」
「……失礼だな君は。だが、君もあの頃はこんなにチビだったのにね」
「チビ言うな」
手で昔の身長を言われ、ついつい言ってしまう。今は大きくなったとはいえ、やはり条件反射は直せず。
「そのチビが今ではここで私の部下だ。何もかも終わったら、君は資格を返上して弟と共に故郷に帰るかと思っていたよ」
「まあ……」
旅を始めた当初は、そう自分でも思っていた。だけど、この男といわゆる恋人という関係になってからは、それは無くなっていた。
上を目指すこのロイ・マスタングを支えたい、その支障となるものを取り除きたい、そう思ったから。
それがオレを突き動かした。アルも兄の決めた事なら、と承諾してくれて今に至る。
「アルフォンスに言われたよ。『兄を宜しく頼む』と。自分という枷が無くなった今、君には己の幸せを見つけて欲しい、と。軍は安全ではないが、君にとってはどうなんだ?」
オレにとって安全とは言えない軍に居る意味、それは。
「あんたの傍に居て、近くで守って、あんたには上を目指して貰う。それがオレの幸せ・願いだし、これから生きる意味だ。軍に居て、ある程度の自由は奪われるけど、オレはそれでいい」
自分でそう決めた。となれば、後は進むのみ。
「だからさ、早く上に行って、あんたの様に苦しむ奴がいないようにする。それが、ロイ・マスタングが上を目指す理由だろ?」
あんたがどれだけ苦しんでいたか分かっている。
雨の日の夜、隣で苦しんでいる。何度も何度も謝って、頭を抱えて。
それをオレに無くす事が出来ればいいか何度思ったか。でも、出来なかった。彼からその苦しみを除く事はもう不可能かもしれない。だけど、今から未来へ脚を進める若い者をそうさせない為にも、出来る事があると思う。
「その手助けを俺はする」
もう迷いは無い。
「ありがとう、エドワード。私は進むよ」
「おう。途中でくたばんなよ」
「勿論。君との約束を果たすまでは」
そう、その瞳。闘志を燃やす、蒼の焔が宿った黒。それは、先を見据え、未来へ突き進む鍵となる。 「だったら、この書類早くやれ」
「……やはりそこか」
「早く処理出来なくて、どうやって大総統になるんだよ。焔一つじゃ行けねえだろ?」
さっきは闘志が見えたと思えたのに。
「しゃーないな。あんたのやる気出させてやる」
本当は無礼にあたるけど、机を占領する書類を少々退かしその上に乗った。そして、茫然としている男の襟首を掴んで引き寄せたら、後は唇を重ねるだけ。
「……これでどうだ」
唇を離しても、顔を近付けたままで、とどめの一言。これであんたは堕ちる。
「今日、あんたの家行ってやるよ、ロイ」
何かされる前に、早々と机の上から退き、扉に向かう。恥ずかしくて顔なんて見れない。ドアノブに手を掛けた時、いつもより低音で艶を含んだ様な声が聞こえた。
「……今夜は覚悟しておきたまえ」
違う方にもやる気を与えてしまったかもしれない。でも、今日くらいはいいか。
「あんたもな。二十代をなめんなよ」
そのまま退出してしまったから、彼がどんな顔をしているかは分からないが、凄い形相で仕事を片付けているのは安易に想像出来る。
「……やっぱしない方が良かったか?」
今更ながらにちょっとした後悔が頭を出したが、時既に遅し。仕方ない、明日は遅番にして貰おうとエドワードはこっそり決心した。
いつもと調子が違うのは、懐かしいあの名で呼ばれたからかもしれない。
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